一家の命運を左右した龍造寺隆信の「決断力」
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第78回
■「肥前の熊」と恐れられた龍造寺隆信の「決断力」

佐賀県佐賀市中の館町(水ヶ江城跡)にある龍造寺隆信誕生地碑。隆信は享禄2年(1529年)2月25日に水ヶ江城で誕生した。
龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)は、島津家との沖田畷(おきたなわて)の戦いで討ち取られ、龍造寺家を衰退させたため、軟弱な武将としてのイメージを持たれているかもしれません。
しかし、隆信は少弐家の家臣筋である国人層から一代で肥前国を支配下に置くと、大友家の弱体化の隙を突く形で、北九州一帯に勢力を拡大させています。
「五州二島の大守」 や「肥前の熊」という異名で呼ばれるほどになりましたが、北上してきた島津家との決戦で命を落とし、龍造寺家は急速に弱体化しました。
龍造寺家の隆盛は、隆信の「決断力」によるところが大きかったものの、その衰退のきっかけも「決断力」にあったと思われます。
■「決断力」とは?
「決断力」とは辞書によると「物事を判断し、進むべき道や取るべき行動を決定する能力」とされています。
似た言葉とされる「判断力」は「正しい答えを見つける」ことに焦点を当てる一方で、「決断力」は「その答えを基に行動を決定する」ことに焦点を当てています。
ある危機的状況において、その判断が正しかったとしても、行動に移すためには「決断力」が必要になります。隆信は「決断力」に優れていたため、下剋上に成功していますが、後半生ではそれが仇になることも増えていきました。
■龍造寺家の事績
龍造寺家は、藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の子孫が肥前国(ひぜんのくに)佐賀郡の龍造寺村に入ったのが始まりと言われています。元々は肥前千葉家に従属していましたが、室町時代の後半ごろに、同じく藤原秀郷流を自称する少弐家に仕えています。
曾祖父の家兼の時代に、少弐家が大内家との争いに敗れ弱体化すると、大内義隆(おおうちよしたか)の調略を受けて、主家からの独立を図ったと言われています。ただし、これは濡れ衣だったという説もあります。家兼は、謀反人として少弐(しょうに)家の重臣たちから攻撃を受け、家族のほとんどを失いながらも、筑後国柳川城の蒲池家に匿われます。7歳で出家し、難を逃れた隆信も共に蒲池家の元へと逃れています。
隆信は1546年に蒲池家や鍋島家の援助を受け、敵方との戦いに勝利し、龍造寺家の再興を果たします。そして、家兼が92歳で亡くなると、還俗していた隆信が後継者となります。
その後は少弐家との争いに勝利し、肥前国内における勢力を拡大していきます。また大内家と同盟すると、その影響力を利用して家中統制を強化し、戦国大名化を進めます。
しかし、大寧寺(たいねいじ)の変で義隆が死去し後ろ盾を失うと、その機に乗じた家臣の謀反により隆信は居城を奪われて、再び柳川の蒲池家の元に逃れます。
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